万物に宿る一対のからくり

植物などのウイルス研究が専門の中屋敷均先生。生命や遺伝子にまつわる話を前編で伺ったが、さらに話題は科学の役割や社会の仕組み、自らのものの見方へと広がってゆく。「白か黒か」という安易で硬直した決めつけを排し、「わからない」こと、「無駄」なことに意味と価値を見出す科学者の思想は、底抜けに魅力的だ。

 

 

 

――先生は、著書『科学と非科学』の中で「科学者として誠実であろうとすればするほど、科学の不確実性に言及しない訳にはいかなくなる」と仰っていますね。科学の「責任」と「驕り」という両面性を捉えた言葉のように思えます。

「傲慢合理主義」と私は呼んでいますが(笑)、合理的に説明できないものには価値がない、といった捉え方がされがちですよね。
確かに、議論において「なんとなくこう思う」を認めてしまうと、そこで話が終わってしまいますので、社会で何らかの合意を作るためには、相手が理解できるよう理論的に説明する必要があります。でも、私自身も非合理的なものに引きずられて生きていますし、個々人の感じ方を無視して良いというのは、ちょっと違うと思います。「絶対正しいこと」なんて本質的にはないんですから。

 

科学の責任に関しては、やはり科学者は科学的な見地から、本当だと思うことをしっかり言うべきだと思います。誰に何を言われようと、ノーはノーと言うべきです。そのうえで、政治家が他の要因も勘案して判断するのが本来の役割分担だと思います。でも、日本の仕組みはそうなっていないんですね。放射能の問題もコロナ政策もそうですが、真実を言う科学者は煙たがられ、政権の意図をある程度汲んで話をする人が「科学者の代表」として表に出ている感があります。

 

 

 

「無駄」や「遊び」も大切

――科学を取り巻く問題として、実用的なもの以外に予算がつきづらいといったこともあるようです。しかし、いわゆる〝セレンディピティ(予期せぬ偶然)〞から新たな発見が生まれる場合もあります。

 

「無駄」や「遊び」というのは、実は非常に大事なんですね。物事の発展には、同じことを繰り返しながらこれまで蓄積してきたことをきちんと維持していく「システム」と、それを改変・変化させる仕組みである「遊び」、この2つの組み合わせが必須だと思います。遊びは、ほとんどの場合、まぁ無駄ですよね(笑)。でも、その中からシステムを発展させる〝何か〞が生まれる可能性もあるわけです。

 

ただ、遊びや無駄は、あくまで土台のシステムがあって成り立つものです。芸術だ何だと言っていられるのは、パンを作り新聞を運び社会を回してくれる人たちがいるからで、食うものがなくちゃ芸術もできません。ですから、要はシステムと遊びにリソースを振り分けるバランスですよね。

システムが勝って遊びの部分がゼロになってしまうと発展も進化もなくなってしまいますが、社会全体が遊びや無駄だけになってしまうと、システムを担う人が誰もいなくなり、社会は崩壊してしまいます。
科学も生命も人類の知恵も同様ですが、繰り返しを維持する仕組みが根底にあり、その上に少しずつ変化していくものがあって初めて、安定した発展が可能になるのだと思います。

 

 

 

――先生は、「わからない」ことに「わからない」まま向き合う重要性も指摘されています。でもそれはある意味で〝気持ち悪い〞ことですよね?

そうですね。しかも科学はその「わからない」に答えを与える存在だと期待されてますから、科学者がそんなことを言ってはいけないのでしょうね(笑)。

将棋が好きで大学時代は将棋部にいたんですが、そこで、強い人の将棋には、「こう指せば勝てる」という結論ではなく「こう指したい」という意志や感性というか、自分の物語のようなものがあることに気づきました。相手の物語に対して自分の物語をぶつけていかないと、相手に飲み込まれて負けてしまうんです。

何かをクリアに結論づけたくてもそれが叶わないことは結構ありますが、そこで無理に着地点を見つけようとせず、「わからない中に道を探していく」ことを心がけるようになったのは、こうした経験があるからかもしれません。

 

 

 

日本人ならではの舵取りを

――未来の社会のあり方についても「正解」はおそらくありません。私たちにとっての〝理想的な物語〞を紡ぐためには、どのような視点が必要でしょう?

日本に、縄文人と弥生人という起源の異なる二種類の人種がいるという話はご存知ですか?元来この地で狩猟採集生活を続けていた古い人類の末裔である縄文人の社会に、大陸から新しい人類である弥生人が流入して、日本という国の骨格が形作られたことは、男性が持つY染色体の最近の研究からもわかっています。

 

面白いのは、普通、古い人類は侵入者によって駆逐されるのですが、日本の場合は海による地理的隔離が要因で、縄文人の社会の中に弥生人が徐々に混ざり合い、支配階級となって国を統合してきたことです。日本人は、古い人類と新しい人類の遺伝子がほぼ半数の割合で引き継がれている比較的珍しい人種なんですよ。

 

「システム」と「遊び」じゃないですが、基本的な社会構造をしっかり維持する穏やかな人たちと、それを操る、少数だが改革志向の強い人たちがうまくマッチングする形で社会が発展してきたのではないかと思います。社会のあり方としてはおそらく理想に近いのでしょうが、今の日本では、支配層の劣化が起こっている気がします。

 

世界に目を向ければ、アグレッシブな新しい人類であるアングロサクソン人と漢民族――それぞれを擁する米国と中国が激突しつつある今、地理的にも立場的にも両者の境界に位置する日本の将来に、私は危機感を持っています。日本には、煽情的になるのでなく、米中の対立を歴史的、全体的な視点で捉え、どう振舞うべきかを考えた舵取りが求められていると思います。

聞き手・文/八木純子

 

中屋敷先生の研究材料の1つ「いもち病菌」。「繰り返し維持する『システム』と変化・改革する『遊び』によって『いのち』が育まれる」という理においては、ウイルスも人も社会も同じだ。

 

 

 

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